2014/03/28

今まで書けなかった「ある人」のこと

ブログを持って、ずっと書こうとして書けなかったある人のことを、書いてみようと思います。

先日、300記事という節目がありました。が、実はこの「書けなかった」こと絡みの、愚痴だらけの数記事は、上げた後削除してしまっていたのでした。

3月は、季節の変わり目ということで、例年調子が悪いのですが、背中を押すのが、数年前の3月のある別れでした。ちょっとしたことで、その人との別れを思い出すと、子どものように落ち込むのです。

性別やら、自分との関係等、全て詳しくは書けませんが、何年か前、若い知人ができました。

その人とは、とにかく話が噛み合いませんでした。最初は、シャイな若者と、おばはんとが噛み合う方がおかしいのだから、と流していましたが、違和感はどんどん大きくなっていきました。

話の間合い・内容がその場にそぐわないことが多く浮き上がってしまう、話し方に抑揚がない、相手の目を見ての会話が苦手そうだ、変化に弱い、人の顔を憶えるのが極端に苦手のようだ等…もしかしたら?いや、素人が軽々しく判断など…。




3年前の3月、東日本大震災直後のことです。その人との別れは、本人が多くを語らないだけで、この時点でもう分かっていました。

自分は他の人と「被災地は寒いでしょうね」「大変でしょうね」という会話を交わしていました。そこへ、その人が口を開きます。

「ロシアでは、マイナス10℃くらいでは寒いとは言わない。マイナス30℃くらいになってやっと…」と、滔々と、かつ淡々と語りました。語り終えた時、ふっと息を吐きます。聞く二人は、言葉を失っていました。

「寒い」という単語だけに反応したのでしょう。その単語に関する知識の抽斗を開けて見せてくれた。それを「やり終えた」ことの満足げな吐息。

しかし、語りはあまりにもそぐわなかった。そして周囲の私達の感情を波打たせたことに、気付いたのかどうか。この人との別れの一因は、やはりこの特性にあるのか…?

涙が出ました。この人は、もしかしたら自分ほどに、それ以上に苦労するかもしれない。「可愛げ」「同質性」「(予定された)共感能力」を強いるこの世間で。

誰とでも話せ、そこそこ愛嬌もあり、うまく自分のペース持っていく力に長けている。しかし、「『コミュニケーション能力』に優れている」と言うには、同時に持ち合わせて欲しい気遣いには欠け、怠惰。ただ暑苦しい「同質性」「共感」のみを強い、場を支配する。そんな人を3月に見ると、いつもよりむかむかします。「世間」という奴は、あの若者よりも、こんな人の方をまだ「まし」と見なすのだろうな、と。

あの若者に抱いた違和感と、そもそもの自分の特性から、発達障害と、その支援に関心を寄せるようになった者の愚痴でした。

もうすぐ4月。ぐだぐだとした愚痴を振り切って、少し、進みます。

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